延命寺

起源は,新田開発のためにこの地に移住してきた数人の農民たちの話し合いから始まったとされています.
それは,武蔵国多摩郡中藤村(なかとうむら/現武蔵村山市中藤)の竜華山真福寺の
塔頭6ヶ寺のうち
随一と云われた龍華山真福寺の塔頭を引寺して,自分たちの菩提寺にしようとしたことだそうです.
       
享保18年(1733)9月,時の代官・上坂安左衛門の役所に願い出て,現在の地に移すことになりました。
以来住職五世を経て淨藩和尚を中興第一世として伽羅山地蔵院延命寺としました。
創建当時の堂宇は、老朽化がはなはだしくなり昭和30年に新築.。

お彼岸前には本堂で200人もの檀家さんの集まる法事があるそうです。

塔頭(たっちゅう);禅宗における開基、高僧、祖師(開山)などの墳墓およびそれを守り、祀るために中心伽藍(寺院の
中心的な建物)周辺に設けられた小寺院のこと。単に大寺の山内に立つ末寺をさす場合もあります。

青梅街道より延命寺を臨む        樹齢?年のソメイヨシノ           2006年4月3日
山門を入ると右手に
九体のお地蔵様が
この大樹の後方に本堂 境内に流れる小川分水の支流

坐像地蔵と六地蔵。

中央の坐像地蔵は嘉永xx(1848〜)と刻印。 不鮮明で判読できないが、
右の立像の刻印は文化5年(1808)


木々に囲まれた墓地の裏手はグリーンロード

 
 六地蔵とは

 日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見らます。
 これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)
 に基づき、六道
(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から 
 生まれたものです。

 地蔵菩薩に関する伝承

 久遠の昔、インドに大変慈悲深い2人の王がいました。一人は自らが神となることで人を救おう
 と考え、一切智威如来という神になりました。もう一人の王は神になる力を持ちながら、あえて
 神となることを拒否し、自らの意で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩とさ迷い続ける魂を
 救おうとしました。それが地蔵菩薩だそうです。地蔵菩薩の霊験は膨大にあり、人々の罪業を
 滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代わりになって救済するという説話が多くあります。

                      
(ウィキペデア百科事典、神社仏閣ミニ事典参照)


えんめいじこうしんとう
延命寺庚申塔
新小金井街道は青梅街道から北側を西武新宿線の地下に潜らせる工事が
2006年3月終了し、交通量の多いにぎやかな交差点になりました。
延命寺は、丁度その交差付近の青梅街道に面して建っています。

山門左手の古い石塔が、
小平市指定の有形民俗文化財第1号に指定されている延命寺庚申塔。
嘉永3年(1850年)造立で、青面金剛が笑っている珍しいもの。

境内の墓地の裏手は狭山・境緑道・グリーンロードが走っています。


庚申塔は小松石の唐破風屋根付角中石で高さ1.7m。
正面上段に日輪と月輪があり
青面金剛が魔物の天邪鬼を踏みつけて立っています。その顔は至極柔和で笑っているようにも見えます。

台座正面に彫られている三猿は烏帽子をかぶり狩衣をつけて足を上げ、一匹は左手に扇を右手で口をふさぎ、一匹は左手に鈴を持ち右手の扇で顔をおおい、もう一匹は左手に御幣をかざし右手で耳をふさいで、
三番叟を踊っているユーモラスなものです。

現在小平市には二十数ヶ所に庚申塔があり、これらは庚申信仰のもっとも盛んであった享保15年(1730)から嘉永3年(1850)までの120年間に造立されたものです。

         
(参考:小平市教育委員会解説)
延命寺庚申塔所在地
       小平市天神町2−296−1
 宗教法人延命寺


2006年10月作成
Copyright (c) 2005- 小平シニアネットクラブ KSNC All rights reserved.